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菅原神社(天神さん)奉納 北浜(北波止)ふとん太鼓(焼失)

北浜布団太鼓は、北波止町を中心とした布団太鼓で、菅原神社に宮入りをしていた。


北島と夫婦太鼓として異名を持っていたが、途中、北島と仲が悪くなり、宮入り時の運行妨害された事により、開口神社に宮入りをする。

北浜太鼓台は、明治40年新調の淡路型で、布団締めは昇り降り龍。大正2年に百舌鳥八幡宮の梅町に売却。

現在の梅町は、大改修をし、土呂台、タガヤより上布団部分は、浜石へ売却。

その後大正14年に2代目を新調するが、昭和3年に火災に合い廃絶。


北浜2

▲初代北浜の絵画再現イメージ
※房は、白房です。

この絵画は、資料等を参考に自作したものです。色や姿・形等100%再現出来たとは限らず、又、全く違う可能性もあります。あくまでも参考にご覧になって下さい。


▼北波止(北浜)にある菅原神社御旅所
PC200019.jpg

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菅原神社(天神さん)奉納 北島ふとん太鼓(焼失)

北島布団太鼓は、戎島町を中心とした布団太鼓で、菅原神社に宮入りをしていた。

この太鼓台は、明治42年製作の淡路型。
布団部分に唐草模様が全体に刺繍され、昇り下り龍の布団締め。隠し額は、扇型。
布団部分に刺繍されている布団太鼓は、今はなく、開口神社奉納の中戸川(焼失)が、布団部分に数羽の鶴を刺繍していた。

戎島の夫婦太鼓として北浜と並んでいたが、北浜が梅町に売却。

昭和12年より、担ぎ手が兵隊として召集され、豪快な担ぎは見れなくなり、昭和20年の堺大空襲で焼失。


北島淡路

▲北島の絵画再現イメージ
※房は、白房です。

この絵画は、資料等を参考に自作したものです。色や姿・形等100%再現出来たとは限らず、又、全く違う可能性もあります。あくまでも参考にご覧になって下さい。

開口神社(大寺さん)奉納 紺屋濱ふとん太鼓(売却)

紺屋濱布団太鼓は、寺地町西・少林寺町西の濱側を中心とした布団太鼓で、開口神社へ宮入りをしていた。

紺屋濱太鼓台は、大正元年頃製作の淡路型。
白の布団締めに、扇型の隠し額には、巴紋が記されていた。太鼓倉は、相生橋東詰めにあった。

昭和12年(推定)、売却。昭和21年、堺市中区の野々宮神社奉納の畑山町が、元紺屋濱太鼓台(推定)を購入。昭和40年代初め頃に老朽化のため破損。以後畑山町は、地車(だんじり)となっている。


紺屋濱淡路型

▲紺屋濱の絵画再現イメージ
※房は、白房です。

この絵画は、資料等を参考に自作したものです。色や姿・形等100%再現出来たとは限らず、又、全く違う可能性もあります。あくまでも参考にご覧になって下さい。

開口神社(大寺さん)奉納 南半町ふとん太鼓(焼失)

南半町布団太鼓は、南半町西の少林寺橋から出島橋付近を中心とした布団太鼓で、開口神社へ宮入りをしていた。

南半町と書いて「みなんじょ」と呼ばれていた。

南半町太鼓台は、大正元年頃製作の淡路型。
布団締めは、昇り龍・下り龍の刺繍で、隠し額は、前後左右に分かれて、般若、天狗、老翁、老媼であった。房は、黒房で、誰もが知る名太鼓であったそう。

大正2年から昭和2年までは、開口神社には、合計13台宮入りをしていた。

この布団太鼓も、昭和20年の堺大空襲で焼失。

現在は、子供太鼓が存在する。


南半町改良

▲南半町の絵画再現イメージ
※房は、黒房です。

この絵画は、資料等を参考に自作したものです。色や姿・形等100%再現出来たとは限らず、又、全く違う可能性もあります。あくまでも参考にご覧になって下さい。

菅原神社(天神さん)奉納 南戸川ふとん太鼓(焼失)

北戸川に「北」と付くように、南戸川も存在していた。

南戸川は、櫛屋町東、車之町東、材木町東、農人町を中心とした布団太鼓で、菅原神社に宮入りをしていた。

南戸川太鼓台は、大正元年頃製作の堺型。梅鉢紋と稲模様の旗を交差させて、正面に飾っていた。隠し額は、雲のない「月」と「日」。

柴壇の四本柱は、大変綺麗だったそう。

菅原神社は、全盛期には、14台もの布団太鼓が奉納すると言う、祭礼だった。

この太鼓台も、昭和20年の堺大空襲で焼失。


南戸川堺型

▲南戸川の絵画再現イメージ
※房は、白房です。

この絵画は、資料等を参考に自作したものです。色や姿・形等100%再現出来たとは限らず、又、全く違う可能性もあります。あくまでも参考にご覧になって下さい。

菅原神社(天神さん)奉納 車材木仲ふとん太鼓(焼失)

車材木仲は、車之町西、材木町西を中心とした布団太鼓で、菅原神社へ宮入りをしていた。

車材木仲太鼓台は、大正元年製作の淡路型。
扇の隠し額で、スッキリとした太鼓台であった。

よく他の布団太鼓でも見られた、布団部分に「大入」を貼っていた。

菅原神社は、全盛期には、14台もの布団太鼓が奉納すると言う、祭礼だった。

この太鼓台も、昭和20年の堺大空襲で焼失。



車材木町淡路型

▲車材木仲の絵画再現イメージ
※房は、白房です。

この絵画は、資料等を参考に自作したものです。色や姿・形等100%再現出来たとは限らず、又、全く違う可能性もあります。あくまでも参考にご覧になって下さい。

開口神社(大寺さん)奉納 中戸川ふとん太鼓(焼失)

中戸川は、宿院町・中之町・寺地町の農人町を中心とした布団太鼓で、開口神社へ宮入りをしていた。

大正2年から昭和2年までは、開口神社には、合計13台宮入りをしていた。

中戸川太鼓台は、大正元年頃制作の淡路型。タガヤ部分が、彫刻となっており、布団締めは、金綱。

特に布団部分に、錦糸で数羽の鶴の飛翔が織られていた。その為、大変豪華で、誰もが印象に残る太鼓台として、有名であった。

昭和20年の堺大空襲で焼失。

現在は、このような布団太鼓は何処にもなく、他には、菅原神社奉納の北島布団太鼓(焼失)もこのように、布団部分に唐草模様の刺繍がされていたそう。


中戸川改良2

▲中戸川の絵画再現イメージ
※房は、白房です。

この絵画は、資料等を参考に自作したものです。色や姿・形等100%再現出来たとは限らず、又、全く違う可能性もあります。あくまでも参考にご覧になって下さい。

開口神社(大寺さん)奉納 大浜ふとん太鼓(焼失)

大浜は、大浜北・中町、栄橋町、竜神橋町、住吉橋町を中心とした布団太鼓で、開口神社へ宮入りをしていた。

大浜太鼓台は、大正元年制作の堺型。少し小柄で、正面に日の丸と、軍艦旗を交差させて正面に飾っていた。また、帆掛船の隠し額で有名だった。

担ぎ手も多く、大変盛り上がっていた。

太鼓倉は、堺水族館(現・大浜公園)の東入口付近にあったが、昭和20年の堺大空襲で焼失。

以後、復活もなく今日に至る。


大浜トンボ

▲大浜の絵画再現イメージ
※房は、白房です。

この絵画は、資料等を参考に自作したものです。色や姿・形等100%再現出来たとは限らず、又、全く違う可能性もあります。あくまでも参考にご覧になって下さい。

菅原神社(天神さん)奉納 熊野戎仲ふとん太鼓(焼失)

熊野戎仲は、熊野町西東、戎之町西東を中心とした布団太鼓で、菅原神社に宮入りをしていた。

熊野戎仲の太鼓台は、明治44年製作の淡路型。布団締めは、銀色で、金色で、梅鉢紋を上部に刺繍されていた。

そのことから、「銀太鼓」と呼ばれていた。

菅原神社は、全盛期には、14台もの布団太鼓が奉納すると言う、祭礼だった。

この太鼓台も、昭和20年の堺大空襲で焼失。以後、復活もなく今日に至る。


熊野戎仲淡路型

▲熊野戎仲の絵画再現イメージ
※房は、白房です。

この絵画は、資料等を参考に自作したものです。色や姿・形等100%再現出来たとは限らず、又、全く違う可能性もあります。あくまでも参考にご覧になって下さい。

開口神社(大寺さん)奉納 中宿濱ふとん太鼓(焼失)

中宿濱は、中之町西・宿院町西を中心とした布団太鼓で、開口神社へ宮入りをしていた。

中宿濱は、明治44年製作の堺型で、少し小柄の太鼓台であったが、強肩揃いの太鼓台であった。

大正2年から昭和2年までは、開口神社には、合計13台宮入りをしていた。
東大甲、大甲濱が売却後は、宮入り1番。
太鼓倉は、住吉橋東詰南側にて保管されていたが、昭和20年の堺大空襲で焼失。

以後、復活もなく今日に至る。


中宿トンボ

▲中宿濱の絵画再現イメージ
※房は、白房です。

この絵画は、資料等を参考に自作したものです。色や姿・形等100%再現出来たとは限らず、又、全く違う可能性もあります。あくまでも参考にご覧になって下さい。
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